幼さを侮るなかれ

 

私は子供が苦手だ。
こう言うと、すかさず四方八方から嫌悪の槍を突き出されて囲まれてしまう。
人としての在り方を否定され、呆れられ、時にはこんこんと膝を寄せて説教をされることがある。
別に嫌いと言ったわけでも、子供に危害を加えているわけでもないのだが、子供や犬猫というのは万人に好かれるべき愛する存在であり、否定すべきではないと、人はみな口を揃えてそう話す。


なぜ、人は子供が好きなのか。愛くるしさを感じる存在、要素というのは十人十色であり、それゆえに世界は個性に溢れて様々なもので彩られているだろう。
しかし、こと子供に関してはその存在の否定が社会的に許されない。無論、公の場で何かの存在を否定することは好まれることではないが、そうでなかったとしても、人々は子供が可愛いという個人の感性を共通認識のように語る。


動物的本能なのだろうか。
我々は人間という生物であり、子孫繁栄のために子をなしていかなければならない。人類存亡を意識して子を育てる親など基本的にいないと思うが、どこかDNAの一部にそういう意識が組み込まれているのではないだろうか。

 

社会的生物と呼ばれる人間の一人として、自らの意思で個としての存在を確立せんとし、群れの中から時々離れてひっそりと孤立を楽しむ。

それは動物、種族として逸脱した行動に思えるが、それができる人間というのはなんだかおもしろい。生き物としての役割、種族を繁栄させるということに重きを置かない。そのせいで少子高齢化だなんだと騒がれてしまっているが(これに関しては別に個人主義が波及したというだけの理由ではないだろうけど)、清々しいな。勢いよく伸びをしたあとに踏み出す最初の一歩のようだ。

 

 

以前、同世代の女性に結婚して子供を作ることを前提に話をされたことがあり、「私は子供が得意ではないし、誰かと共に生きることもない」と回答すると、その子はフンと鼻で笑って「ああ、精神年齢が幼い人って子供嫌いらしいもんね」と大層卑しい面構えで言われたことがある。


「そうかもしれないな」と返したが、内心はそんな発言をして他人がどう思うかもわからないような人間だって随分と想像力がないと思うがな、そんな様で子供に関わる方が問題ではないか?とかなんとかムカムカと思ったが、争うメリットもなかったのでそれ以上は何も言わなかった。


まあ、こんなことをわざわざ日記として書き残して言われた相手を醜悪に書き連ねること自体陰湿で幼いと言われたらそれまでなのだが。
子供が得意ではない、ということ自体あまり好まれる話ではないのでそんな話をしてしまった私も想像力がなかったな。反省。

 


ところで、冒頭でも話したが、私は子供が得意ではない。
子供というのは、もちろんステレオタイプ的な印象はあるかもしれないが、みな個性があり、いろんな子供がいる。


得意ではない、というのは好きだとか嫌いだとかそういう話ではなく、単純に言ってしまえば怖いのだ。
そして、子供を相手にした大人にも少し恐怖を覚えることがある。
例えば先程、幼さを指摘されて子供が苦手な理由を笑われたが、この幼さというのはいわゆる精神的な未熟さのことを言うのであって、私が考える幼さの恐怖ではない。


幼さの恐怖は、無知であり、無防備であることだ。


この無知というのは、子供が何も知らないという意味ではない。無防備というのは、危機管理能力がないという意味ではない。

 


大人はよく言う。


「子供にはわからない」
「大人になればわかるよ」


しかし、はたしてそうだろうか?
本当に、本当に子供はわかっていないのだろうか?
私は、子供はわかっていると思うのだ。喜び、怒り、不安、恐怖、大人の言動、結びつく感情、自分の置かれた環境。
多分、子供は全部伝わってる。わかっていないと思うのは大人だけだ。そして、大人こそが本質を理解していない。


私が子供だった頃、色んなものを見て、色んなことを考えて、色んなことを感じた。
ただ、それをうまく伝える言葉を、やり方を知らなかったのでどうしていいか分からなかったこともたくさんあった。


つまり、子供は理解していないのではなく、無知故に感じたものや考えたことを的確に表す知識や経験が不足しているだけなのだと思う。
故に、わからないとタカを括って子供を侮ることは子供に対して失礼だ。幼くても彼ら、彼女らは1人の人間であり、感情もあるし、考えもする。同じだけ、傷だってつく。


幼い頃、他人の言動で傷ついたことはないだろうか。嫌な気持ちになったことはないだろうか。幼い時に気づかなかった傷を、大きくなって色んなことを知ってから「あの時、私は傷ついていたんだ」と気づいたことはないだろうか。


私はある。たくさんある。


以前読んだ漫画で「子供というのは固まる前のセメントみたいなもので、つけた手形は固まってしまえばそのまま手形として残ってしまい、固くてなかなか壊れず、上からまた新たに覆いかぶせて誤魔化すしかなくなる」という話があった。


子供は無知で無防備だ。
自分の傷を自覚したり、表現したり、そして傷から守ったりすることが、我々大人より難しい。


だから守ってあげなくてはならない、とまでは言わないが、侮ることはけしてあってはならないのではないか、と思うのだ。
しかし、子供は無知ゆえに己がどう感じたのか的確に言い表すことが難しい時だってある。まあこれは大人でも同じことが言えるが。


だから、私は子供が怖いのだ。
自分が悪意なく加害者になる可能性があるからだ。そして、それが幼い心のセメントに深く跡を残してしまうかもしれないからだ。


臆病だ、考えすぎだと笑う者もいるだろう。
でも別に、それでいいのだ。
私はただそういった理由で子供が怖いので近づかないし、変に話しかけたりしないし、万が一交流することがあったら大人を相手にするより気を使う。

 


子供嫌うな、来た道だ。
老人嫌うな、行く道だ。

 


こんな言葉があったような気がする。
私は、これは好きだとか嫌いとかではなく、こと子供に関しては自分も子供だったからこそ、覚えていることや感じたことがあるんじゃないだろうか。大人になるにつれて、それは徐々に忘れられて失われてしまうが、大人に対して思ったことがあったのではないだろうか。


高齢者も同じである。
自分が若かったときに感じたことがあったのではない。自分が歳をとったときに何か感じることがあるのではないか。そういうことを想像して私はいちいちゾッとしてしまうのだ。

 


子供だとか、大人だとか、そんな言葉を使ってきたけれど、当たり前のように世界には色んな人がいる。でも、それらを何かでカテゴライズして言語化することは、第三者にとって都合が良くて使い勝手がいい。統計的な意味ではない。


私も人知れずカテゴライズして、判断したり、怯えたりしているのだ。
子供を無知で、無防備だと思うこともまたカテゴライズであって、子供を侮っているのかも知れない。

 


とにかく、私以外の人間は全て私ではないのだから、想像を働かせて接することはあっても同一視はできない、侮ることはできないなあ、と日々思うのだった。

 

 

 

 


それはそうと今朝私のこと指差して

 

「ハゲーーーーーーーーーー!!!!!!!」

 

って叫んだ未就学児童、絶対許さないからな。

 

 

 


絶対許さないからな。
大人の心のセメントだって、柔らかいんだからな。

 


ハゲてないもん。