歳を重ねるということ

「もう誕生日迎えるの、嬉しくないんだよね」

 

 

先日、友人の誕生日を祝った時に、ふと友人がそんな言葉をこぼした。私はなんで?と素直に尋ねてみたが、友人は呆れたように「普通みんなそうだよ。歳重ねるの嫌だよ」と言っていた。普通、ふつうかあ、と心の中で何度か反芻してみたけど私にはイマイチしっくりこなかった。

 

私は歳を重ねることに、たぶん肯定的な方だと思う。あまり考えたことがなかったから分からなかったけど、年齢がどう、誕生日がどうってことより、昨日の私より今日の私の方が私らしく生きている気がする。なんでかな?わからないけど。

 

昔の私は今よりも自信がなくて、いや、小さい頃は過剰なくらいの自信家だったのだけれど、その反動で思春期はとんでもなく人生や他人に対して臆病な生き方をしていた。今も臆病には変わりはないけど、昔に比べたらさっぱりしているというか、臆病なところも私なんだなと思えるというか。慎重であることは大切にしたいし、臆病な部分も治したい気持ちはあるけど、まあ別に今の私でもそれはそれで良いのかな、というか。

 

そういえば中学生や高校生の頃、といってもまあなかなか昔の話だが、いわゆる私や周りは未成年でその時はみんな口々に早く20歳になりたいけど歳はとりたくないとワガママなことを言っていたような気がする。

 

誕生日を迎えた友人がいるたびに、教室で無駄に大騒ぎして、いろんな計画を立てて驚かせたりした。あれは誕生日を迎えた主役を祝うというか、なんていうかもう思いついたことをやりたい放題したパニック映画みたいだった。私たちはゾンビのように群がって、知性を失いぎゃあぎゃあと鳴き、誕生日の友人に襲いかかり、友人をもゾンビにする。あの頃は自分たちが無敵の世代だと思い込んでいた。でも、同時に学校という場所で決められたカリキュラムや制限された服装、部活動での抑圧なんかもあって、一刻も早く解放されたい気持ちも強かった。私たちは(他の学生たちがどう感じていたかは人によると思うけど)不自由の中で無敵だと思っていたのだった。

 

上履き(人によっては踵を履き潰していたのでスリッパも同然だった)をぺったんぱったん言わせながら狭い廊下を駆け抜けて、夏だったら教室の扉を開けて登校早々に脇汗染みてない?なんて叫びながら友達に確認してもらって、冬は腰に巻いてたブランケットを寒がりの友人が手当たり次第追い剥ぎしようとして羅生門と呼ばれていたり、大掃除の時にいつのかわからない紅茶の紙パックが出てきて悲鳴があがったり、担任のモノマネに精を出し、友人の惚気話を話半分で聞いていたり、太っただのニキビだのに悲しんだり、不自由ならではの自由がたくさんあった気もする。

 

将来よりも今目の前のブームや恋愛に夢中だったけど、大学生や社会人は今よりもっと自由で広大な世界のように思えて早く成人したいと話す子も多かったと思う。それはそれとして、今ある時間がなくなることにも抵抗があって、誕生日を迎えた子は嬉しそうに顔を綻ばせながらも歳を取るのは嫌だと騒いだりもした。どこかに行きたいと思いながら、居心地がいいからそのままずーっとその場に留まり続ける。そういう生き物だと思った。そこから進学や就職とは別に羽ばたこうとする子は稀だった。私たちのグループも、そういうことがあんまり現実的じゃなくて興味なかったと思う。

 

 

そういえば、高校生の時に抜き打ちで服装検査が実施され、私たちは急いでシャツのボタンを止めたり、ズボンの腰履きをあげたり、折っていたスカートをくるくると元に戻して(今思えばバレバレだったのだろうけど、女子はみな一様にだいぶしわくちゃのスカートになっていた)無事検査を通り抜けた。しかし、友達は先輩から譲り受けた生地を裁断して短くしたスカートを履いていたため、どうにもできず、「やらかしたわ」と真顔で呟いたと思うとそのまま検査係の学年主任の前に仁王立ちした。特に反抗的なタイプの友人ではなかったので、たぶん彼女なりの精一杯の強がりだったのかなと思う。間違っているけど。


私たちはそれを固唾を飲んで(全員顔はにやけていたが)見守っていた。学年主任も、服装検査を宣言してなおも膝より遥か上に位置する友人のスカート丈に、仁王像の片割れの吽形像みたいな顔をしていた。

 

「スカート短いんだけど」
「はい」
「切ってるなら新しいの買ってもらうようになるよ」
「いいえ、切ってません!」
「じゃあなんでそんなに短いの」
「入学してから成長期を迎えてスカート丈が足りなくなりました」

 

友人と学年主任の静かな攻防をよそに、私たちはそれはもう腹を抱えて大声で笑っていた。顎が外れるかと思った。あそこだけ宇宙空間かと思うくらい酸素が不足してたと思う。今思えば、先生方にすごく迷惑をかけて申し訳ないのだが、当時はなんであんなに横暴で無頓着で自分たち主体だったのか。恥ずかしい。
まあこういうエピソードは不真面目だとは思う。

 

 

話を戻すけど、そもそも、「歳を重ねる」って日本語、すごく良いなって思うんだよなあ。重ねるって、イメージ的な話になるけど、お菓子だったらミルフィーユやパイ、おもちゃだったら積み木、地理だったら地層、アニメだったらセル、みたいな、元となる層があってその上にどんどん新しいものが積み重なっていく感じがする。


年齢なら一年っていう層かなあ。オブラートみたいに薄い層もあれば、辞書みたいに分厚い層もある。それが人によってさまざまな形や順番で積み重なってその人だけの地層ができる、みたいな!ワクワクしない?しないか。

 

楽しく歳を取れたらなって思うけど、年齢を重ねるのが嫌な人がいるのも当然で、私だってこんなこと書きながら毎日脳や体力の衰えにガッカリすることも多い。老いのデメリットなんてたくさんあるけど、老いは生きてる以上必ず訪れるものだから、それならどう老いるのかを大事にしたいというか、そもそも老いるからってなんなんだ?みたいに私は思ってしまうわけで。もちろん、年齢が増えることを嫌がる人は、その現象自体よりも例えば結婚や出産であったり、出世であったり、老いであったり、環境の変化だったり、そういう悩みに対しての不安だとかが大きいとは思ってるけど。
私も70とか80とか、もっともっと今より本格的に歳をとってしまえばまた違った感覚になると思うし。

 

歳を取るのが嫌だっていう人を否定する気はないよ。だって他人にどんなに言われても嫌だって思うことは嫌でしかないもん。


嫌なことって、ネガティブな気持ちだから、それを否定されるのって、たぶん人によっては好きなものを否定されるよりずっと辛い気がする。嫌だと思うことが罪なのかって思ってしまう。でも、それを他人に押し付けたり、所構わず表明して回ったりしなければ、好きって気持ちも嫌だって気持ちも全部自分のものだから、誰かに否定される言われはないよね。好きなものを好きということ、嫌いなものを嫌いということ、もちろん倫理観だとか不特定多数の人間を明確に傷つけるようなものには注意をするべきだけど、そうじゃないなら自由だよなあ。

 

 

自分一人でぐるぐる考えるのも楽しくて好きなんだけど、ふと他人と会話をしたり、他人の話を見聞きすると、他人はやっぱり他人で、自分じゃないものを持っていて、それが好きでも嫌いでもたまらなく楽しくて、素敵で、面白くて、すごいなぁって思う。