祖母との思い出

 

私は父方と祖母と同居していた。正確には祖母の持ち家に私たち家族が住まわせてもらっている形だった。
父の母、つまり私にとっての祖母は、なんというか、偏屈で気難しくてシニカルな女性だった。
嫁いできた母は随分と苦労をしたと思う。


しかし、祖母は孫の私にはとても優しかった。
私のわがままにハイハイと頷き、私にお駄賃やお菓子をくれた。


今回はそんな祖母との思い出をぽつりぽつりと書いていこうと思う。
全て書いていくと、私の日記が祖母日記になりかねないので、かいつまんで、いくつかを。

 


①祖母と梅干し


祖母は夏(記憶がうろ覚えなので定かではないが恐らく夏だろう)に裏庭で梅干しを作っていた。
私は、ざるいっぱいの梅の果実が天日干しされているその香りが大好きだった。
裏庭に続くガラス戸を何度も開けたり閉めたり(開け放しにすると母が怒るのだ)して、私はその香りを楽しんでいた。
晴れた空、眩しい日差しに照らされた果実、前髪を散らすほどの力もない優しい風にのってふわりと香る甘い香り。
大好きだった。
袋に閉じ込めて、朝起きたときや寝る前にいつも嗅いでいたいと思った。
幼い頃、私は母に聞いた。


「ばあちゃんが作ってるのはりんご?」


青い果実を青りんごしか知らなかったのだ。
それがだんだんと黄色に変わっていくので、私はあれが大きくなってりんごになると思っていた。


「あれは梅だよ。毎日ごはんの時に出てくる梅干しの元」


私は驚いた。
梅干しというのはもっとシワシワしていて、真っ赤で、べちょべちょで、すっぱくて、私が苦手な食べ物だったからだ。
そんなバカな、と思った。私は母が嘘をついてると思った。


母は、私が梅の香りを気に入っていると察したのか、ある日の晩(たぶん梅干しが完成した頃)に小瓶からいくつか梅干しを小鉢に盛り付けて家族の前で告げた。


「ほら、これがばあちゃんの作った梅干しだよ。美味しいから騙されたと思って食べてごらん」


なんてことを言うんだ、このババアと思った。
私は、幼い頃から母親の「美味しいから騙されたと思って」という言葉をこの世で最も信用していなかった。騙されなかった試しが一度だってないからだ。とんだペテン師だと思っていた。
ばあちゃんはどんな顔をしていたか、隣に座っていたので表情はわからなかった。


「いらない」


私はそういって、隣の豚肉を掴んで乱暴に口に放り投げた。
私のこの一言が原因だったのか、それから気づくと夏の香りは消えていた。
梅干しは嫌いだったが、あの香りは好きだった。
どうしてあんなにいい香りがするものを、あんなにすっぱくしわしわにしてどぎつい赤に染めてしまうのか。


もうあの裏庭も、裏庭に続くガラス戸もない。
それでも時々、本当に時々、風にのってあの優しくて甘い香りがするたびに、私にとっての夏の宝物をふわりと思い出す。

 


②祖母と塩辛


祖母は梅干しの他に塩辛も作っていた。


ある日の食卓にそれは突然並んだ。
普段は食わず嫌いをする私だったが、その日はなんとはなしにそれを食べてみたのだ。


「おいしい」


無愛想で有名な私は途端に笑顔になった。
家族みんなにおいしいと伝え回り、それをぱくぱく食べてご飯を何度もおかわりした。みんなニコニコと笑っていた。私も美味しくてニコニコと笑っていた。


「子供は正直だからね、やっぱりわかるんだよ」


祖母が誇らしげにそう言った。
母も嬉しそうにそうですね、と笑った。そして私に教える。


「それはねえ、おばあちゃんが作った塩辛なんだよ」


私は思わず祖母を見た。
祖母は、細くて小さな目がもうなくなっちゃうんじゃないかってくらい嬉しそうに笑っていた。ちょっとだけ自慢げだった。
こんなにおいしいものを作れるなんて、祖母は天才なんだと思った。私は祖母に、何度もおいしいと伝えた。
そして、また作ってねと言った。
祖母は嬉しそうに細くてしわくちゃの手を私の手に重ねて、でも何でもない風に「はいはい」と答えた。


そんなことがあってから、祖母はよく塩辛を作ってくれるようになった。
毎回、私はそれを楽しみにしていて、食卓に出てくると喜んで、たくさん白米を食べた。
祖母も嬉しそうだった。


ある日、私が母親に「今日はばあちゃんの塩辛ある?」と聞いた。途端に母親が険しい顔をして、私に言った。


「おばあちゃん、体があんまり強くないんだからもうやたらと誉めちゃダメだよ」


あんたが喜ぶと、腰が痛くても嬉しくなって作っちゃうんだから。
私はショックを受けた。
祖母は何でもないようにしていたが、塩辛作りで確実に足腰を痛めていたようだった。


その日も祖母の塩辛は食卓に並んだ。
私は食べた。
今日も美味しかった。
祖母は、今まで私に美味しいかとは一度も聞かなかった。プライドの高い人だったから。
だから、いつも私から祖母に美味しいと伝えていた。


母の言葉が頭にこびりついていた。
私は黙々と、いつもの食事と変わらず無愛想にご飯を口に運んでいた。


すると、祖母が不思議に思ったのか、不安に思ったのか、いつもは聞かないのに「塩辛、美味しいかい?」と聞いてきた。
私は答えたかった。今日もおいしいよ、また作ってねって。でも、言ったら祖母が体を壊すと思うと怖くて言えなかった。泣きそうだった。
だから私は、もそもそとごはんを口に運びながら祖母の顔も見ずに「うん」とだけ言った。


それから祖母は塩辛を作るのをやめた。
母が何か言ったのかもしれないし、祖母が本当に身体が辛かったのかもしれない。それはわからない。
でも、やっぱりどうしても食卓に市販の塩辛が並ぶたびに、お店で塩辛のパックを見るたびに、私は、私のあの日の受け答えが決定打だったんじゃないかと思えてならない。


私はそれ以来、塩辛が好きじゃない。
どんな塩辛を食べても、祖母の、もう味も覚えてない塩辛を超えられないから。

 


③祖母と祖父


祖母は苦労人だった。
祖母が嫌味ったらしくて、気が強いのも、そんな苦労してきた人生が影響しているのかもしれない。


当たり前だが、祖母には夫がいた。
私にとっての祖父だ。
ただ、私が生まれる前に亡くなったそうで、私は祖父のことを伝聞でしか知らない。
その伝聞も、赤の他人の母からのもので、実の妻や息子である祖母や父からは、一度も聞いたことがなかった。


祖父は放蕩者だった。
酒が大好きで、ふらりと消えては手持ちの金を使い切って、またふらりと帰ってくる。
職業婦人だった祖母は結婚とともに仕事を辞めて家庭に入ったものの、そんな祖父だったので家計のやりくりに追われてとてもまともに暮らせなかったらしい。


ある日、祖父はいくらかの金と一瓶の酒を持ってふらりとまたどこかへ行ったきり、帰ってこなかった。
祖母は子供のため、家庭のために祖父と離婚し、生活保護費を受け取って暮らす決意をした。この辺の話は幼い頃に聞いたのでぼやかして聞かされたが、その暮らしは壮絶なものだったらしい。


祖母は口癖のようによく話していた。
「この家は私が塩をなめて建てた家なんだよ」


あながち嘘じゃないのかもしれない。


しかしそんなとき、祖父は帰ってきた。
そして、そのまま床に伏せたかと思うとすんなりと息を引き取ったらしい。
祖母は亡くなる前に、帰ってきた祖父と再度婚姻関係を結び、亡くなってからは喪主として葬式を行い、手厚く葬って墓も立てたそうだ。
どうして私は、祖母がこんなクソ男にそこまでしてあげたのかわからなかった。愛といえば陳腐な気もするし、昔はそういうものだったと言われてもしっくりこない気がした。
亡くなる前に帰ってくるなんて、最期に祖母たちに会いにきたといえば聞こえはいいが、いい迷惑だとさえ思った。


祖父の遺影は仏壇に飾られている。
亡くなったと聞いた年齢よりずっと若い、もしかしたら今こうして日記を書いてる私と同じくらいの年齢の若い男の写真だ。
放蕩者だったそうだから、きっと結婚式なんかの記念写真しかなかったのだろう。
祖父のことはよく知らない。伝聞でしか聞いたことがないからだ。


だから私にとって祖父はどうでもいい存在で、憎しみも恨みも、なんなら血が繋がっていることすら意識していない。それくらい、なんというか、知らない人なのだ。


祖母の結婚相手。祖母に苦労をかけた人。放蕩者。死ぬ前に戻ってきた男。


まあ、でも、もし祖父に会えたとしたら、一発くらい殴ってるかもしれないなあ。

 


④祖母に初めて怒られた日


私は悪い子だった。
門限なんて守った試しがなかった。


8歳ぐらいのある日、少し遠いところにある友達の家に自転車で遊びに行った。
散々遊んで、気づけば門限の時間に近づいたので、私は帰ろうかと思ったが、一緒に来た友人がまだいるというので私も残ることにした。
楽しいから帰りたくないというのもあったが、遠い地域だったため帰り道を覚えていなかったのだ。


とっぷりと空が暗くなった頃、ようやく帰ることになった。
ばいばい、と元気よく手を振って自転車を漕ぎ出す。暗闇に古臭い電柱の明かりと、自転車のライトが二つ、光はそれだけだった。


そうして、一緒に帰っていた友人とも別れ道でばいばいして、私は1人になった。


途端に、心細くなった。
元々、臆病なのだ。暗闇から突然お化けが出る想像をしては震え上がって、ペダルを回す足に力が入った。身体に浴びる風が生温くて、ぞわぞわして、暗闇にのみこまれそうで、知ってる道も知らない顔をしていて、身体はかちこちと強張ってきて、泣きそうで、寂しくて、とにかく早く帰りたかった。


家に着くと素早く玄関を開けて飛び込んだ。
まだ親は帰ってきておらず、家には祖母だけがいた。


「ただいま」


いつもより大きな声で言った。
なによりも誰かの存在を感じたくて、祖母のおかえりを待っていたのに、祖母は背中を向けたまま、私におかえりとは言ってくれなかった。


祖母の前に向き直って、ばあちゃん、ただいまと再度声をかけると、見たこともないくらい険しい顔の祖母がいた。
そして、帰りが遅くてとても心配したことを淡々と告げられ、怒られた。


私は、その時初めて祖母が怒ったのを見て、自転車で振り切ってきたはずの恐怖心がぶわあと追い風のように戻ってきて、わんわんと泣いた。
祖母も少し泣いていた。


ごめんなさい、と謝りながら祖母の膝に縋った。
祖母は「帰ってきたならいいんだよ」といつもの優しい声で、私の頭を、私が泣き止むまで撫でていた。
祖母の膝は、すごく暖かくて、怒られて泣いているはずなのに、心地良くて、私は泣き止んでもしばらくその膝に縋っていた。

 


⑤祖母と犬


祖母は獣を嫌った。
犬を飼いたいと言った時も、「家に獣がいると受験に失敗するからダメだ」と謎の持論を展開して機嫌を悪くしていた。


そんな祖母だが、孫の私には優しかったのでペットショップに行きたいというとタクシーを呼んで連れて行こうとしてくれた。
これは長くなるので割愛するが、実はそのタクシーに騙されて知らない土地で下ろされ(ペットショップは車で10分ほどの近場だったはずなのに)、置き去りにされた思い出がある。その後、たまたまそれを見て不審に思った別なタクシーが親切に帰り道まで送ってくれたのだが、私はそれがひどくトラウマで、タクシーが大嫌いである(親切なタクシー運転手のおじさんには心から感謝している)。


そして、ついに我が家に犬を迎えることになった。ごねているのは祖母だけだったが、私がどうしても欲しいと言うといつもブツブツと何か言いながらも黙ってしまうので、強硬策に出ることにしたのだ。


犬は元気だ。
祖母にもよく懐いて、飛びついたり、遊んでと吠えたりした。その度に祖母は嫌そうな顔をして、「嫌だね、この犬は。どっか行け」と叫んだ。でも、私が小学校から帰ってくると、いつも犬は祖母の膝の上でくつろいでいるか、祖母の腕に抱かれてお互い昼寝をしていた。


なんだかんだ仲良しなのである。


余談だが、祖母はこの頃少し記憶が曖昧になってきており、家族の中で痴呆が始まったのではと心配していた。
しかし、犬を迎えてからは騒がしい環境に忙しくなったのか、祖母はメキメキと元気を取り戻して、痴呆らしい言動が見られることもなくなった。祖母は相変わらず言動では犬を嫌うような素振りを見せていたが、私たち家族は犬をお迎えしてよかったね、アニマルセラピーって本当にあるんだね、なんて話していた。


ちなみに、祖母がずっと話していた受験だが、私は幸いなことに無事志望校に合格することができたため、彼女の理論を、その経験を持って打ち倒すことができたと言うわけだ。


私は祖母に、第一志望受かったよ、と報告した。
祖母の返事はない。


祖母は、静かに眠っていた。

 


⑥祖母の死


私が高校受験の時期を迎えた頃、祖母の容体が悪化した。
そのままあれよあれよと入院が決まり、家に帰っても祖母がいない日が当たり前になった。


ある日、祖母と面会することになった。
母親に連れられ、病室に入る。私は病院が嫌いだった。無機質で、真っ白で、そのくせ穏やかな空気が気に入らなかった。


祖母はたくさんのチューブに繋がれていた。
私たちに気づくと、身体を起こそうとしたが、とても辛そうで、結局寝たまま話すことになった。母親が二、三言話していたが、私は、あの元気で偏屈な祖母が、弱々しい身体で、消え入りそうな声で話す祖母が、とても信じられなくて、見るのが辛くて、ずっと俯いていた。
母親が私に、ほら、ばあちゃんと話しな、と促してきた。
私はのそのそとベッド脇に移動して、ばあちゃん、と呼んだ。ばあちゃんは声を出すのが辛かったのか、んーと小さく声を出して、嬉しそうに目を細めて笑っていた。


その瞬間、私はたまらなくなって、泣きそうになって、私もうん、と短く言ったきり黙ってしまった。


帰りの車の中で、母は怒った。


「せっかくばあちゃんに会ったのに、あんたはどうしてそう無愛想なの。どうしてあんな態度しか取れないの」


少し悲しそうでもあった母の言葉に、私は違うんだよ、と言いたくても言えなかった。
私は泣くのが嫌で、我慢していたのだが、祖母の目にも私は無愛想で不満げに映っただろうか。祖母も、気を悪くしただろうか。帰り道、そればかりがずっと頭を巡って後悔していた。

 


結局、それが祖母との最期だった。


祖母の死体は眠ったようで、肌と同じ真っ白な服を着て、いつもみたいに眠っていた。
みんな祖母の眠る前に正座して、その間にお坊さんが立っていて、何か話をしていた。


ぼんやりとしていて、その頃のことをよく覚えていない。ただ、葬式場で親戚一同が集まって祖母の話をしている時も、私はなんだかジッとしてられなくて、葬式場の中をうろうろと彷徨っていた。その時も、母親が火葬するからと私を呼びにきて、「あんたは本当に無愛想だね、ジッとしてられないね」と怒った。


死ぬ前も、死んだ後の祖母の葬儀さえも無愛想なのか、私は。
ひどくショックを受けたのを覚えている。
好きで無愛想なわけではない。
どういう顔をしていいのかわからなかったのだ。なんの感情も浮かばなかったのだ。死んだ、ってことが、人が死ぬってことが、わからなかったんだ。

 


祖母が亡くなってから、私は受験を迎えて、無事合格した。
花と線香を持って、祖母の墓に向かう。放蕩者だった祖父と同じ墓だった。


掃除をして、しゃがんで手を合わせて、合格したよ、と報告した。


犬の話、嘘だったね。このままいい大学行って、いい会社入るよ。ばあちゃんの嘘、嘘のまんまだよ。


ばあちゃんは何も答えない。
目の前にはただ、無機質な石があるだけだった。墓がなんだというんだろう。花で飾って、線香を添えて、それがなんになるんだろう。偉そうな名前を死後にもらうことの何が良いんだろう。
もう家に帰ってもばあちゃんはいないのに。梅干しの香りはしないのに。塩辛は食べれないのに。犬とお昼寝しないのに。おかえりって言ってくれないのに。こっそりお小遣いをくれたりしないのに。はいはい、って呆れたように、でも嬉しそうに撫でてくれないのに。もう笑ってくれないのに。

 


墓参りしたって意味なんてない。仏壇に飾られた写真に意味なんてない。


もう祖母の記憶が朧げになってきている。


思い出すのは、初めて怒られた時の声だ。
浮かぶのは、遺影の顔だ。
祖母の家も、もうない。


死んでしまったのだ。
祖母は死んでしまったのだ。

 


別に、今日は祖母の命日でもなんでもない。
でも、とりとめもなく祖母との思い出が浮かんできて、たまらなくなってしまったので、もう祖母を死なせないように、せめて少しでも思い出せるように、祖母のことを書いておこうと思った。

 


ばあちゃんの遺影は、口をへの字にしてむすっとしている。
それを見て、ふと思った。
無愛想なのは、きっと祖母譲りだ。
そう思うと、あんなに言われたくなかった無愛想だね、の言葉に祖母がいる気がした。


そうなんだ、無愛想なんだよ、ばあちゃん譲りなんだ。


無愛想が良いとは思わないけど、こればっかりは、無愛想が私と祖母を結んでくれてるような気がして、ちょっとだけ泣きそうになった。

 


祖母はもういない。
祖母が死んでから、また何度目かの夏が来る。