ケ・セラ・セラ

私はあまりジブリ作品を見ていないのだが、唯一、「ホーホケキョ となりの山田くん」(以下、「となりの山田くん」)という映画だけは小さい頃に何度も何度もレンタルショップで借りていつまでも飽きずにテレビに貼り付いて見続けた。それから少し経って原作(4コマ漫画)も購入し、映画も定期的に見ていた。

 

そして先日、満を辞してBlu-rayの購入を果たした。

 

となりの山田くん」という作品は、とにかくキャラクターが愛らしくて、いしいひさいち先生のゆるい手書きのタッチに、水彩のような淡い色合いで着彩された映像から生み出されるのほほんとした雰囲気があたたかくて好きだ。そしてそこに、ピリッと痺れる悪さ(毒舌だったり捻くれた考えだったり)がいい塩梅でテンポよく繰り出されるので、ウフフと笑みをこぼしながら時間を忘れて見てしまう。

 

作品の中の流れは緩急こそあれども、いつまでものんびりとしている。いつまでも続くような(それはさながら、本当に日常生活のようで)、それでもテンポの良さからあっとういうまに気づけばエンドロールが流れている。終わりの瞬間はいつ見ても切ないが、同時に満足感とぽかぽかとした気持ちが胸に咲く。


エンディング曲の柔らかな光に溶け込むような曲調は、オープニングにも、そして場面の随所にも挿入されているので、私はエンディングを迎えても、彼らの日常生活が続いていくのだと思える。


となりの山田くん」では、ハッとするような事件は起きない。不思議な動物も出ない。不思議な世界に迷い込むこともない。ただ、山田家の日常生活で起きる些細な出来事が流れるだけなのだ。

 

山田家は祖母(しげ)、父(たかし)、母(まつ子)、長男(のぼる)、長女(のの子)、犬のポチからなる5人と1匹の家族で構成されている。
そしてこの家族、とにかくクセがある。

 

例えば映画の始まり、導入部分だが、長女であるのの子のナレーションから始まる。
以下、「THE ART OF MY NEIGHBORS THE YAMADAS ホーホケキョ となりの山田くん」(株式会社徳間書店/スタジオジブリ事業本部発行)内p161「シナリオ決定稿」より抜粋

 

画面に大きく丸が描かれる。
のの子「これはお日さま」
少し引いて、空の色が赤くなり、その下にすすき原。
のの子「これは月」
さらに引いて、すすき原が増え、花札のぼうずの図柄となる。
のの子「すすきの山のここは地球」
そのすすき原からさらに引いていくと、それはしげの頭。
のの子「そしてこれがおばあちゃん」

(抜粋終わり)

 

そして、祖母のしげが飼い犬のポチを連れて夕方に散歩しているシーンに移る。この流れや構成が見事で、原作の4コマ漫画のあらゆるネタが場面の繋がりがぷつりと途切れることなく自然と繋がってゆくので、またそれも日常生活の連続性を感じさせる。

 

そして、この導入から始まる祖母のシーン、散歩中に丹精込めて菊を育てる男性に出会う話なのだが、祖母はそれを感心そうに眺めて褒めそやし、男性も気を良くする。祖母が「これはなんていう種類やろか」と尋ね、男性が自慢げに菊の種類を答えると、祖母は菊の花の葉に付いている虫を指差し「いえ、この虫は」と答え、むくれた男性を尻目にいじわるそうに笑いながら「派手な花に負けん、立派な蝶になるんやで」と言ってすまして去っていく。そこから母まつ子が慌ててやってきて、主人に愛想笑いを見せ、祖母を追いかけていく。
そしてのの子の「こんなのがうちのおばあちゃんです」というナレーション。

 

冒頭だけで幼い私は惹きこまれて夢中になってしまった。なんて捻くれているんだろう!
日常生活の連続性、些細な出来事、時には笑って、悲しんで、怒って、喧嘩して、それでも家族は家族のまま、今日も1日が始まる。
まあ、さすがに幼い頃の私はこんなことを考えて映画を見ていたわけではないが。

 

他にもぐうたらでおっちょこちょいだが思いやりがあって楽天的な母まつ子、家族に対して大黒柱の責任を持ちながらそれが時に空回りする父たかし、勉強も運動もできないけど人を唸らせる発想力を持ち口が達者な長男のぼる、そんな家族を見て育ったからか愛らしい見た目とは裏腹にしたたかで賢い長女のの子など、長所も短所も魅力的な家族である。

 

ところで、この「となりの山田くん」という映画、先程に特筆した事件は起きないと書いたが、実はひとつだけ、作品内にはそぐわないような事件が起きる。

 

物語の中盤の、暴走族の話である。


まず、祖母しげと母まつ子が外出中、へしゃげたガードレールに添えられた花を見つけるシーンがある。ここで、いままでのデフォルメされた作画から一転してリアル寄りの作画に変わる。見つけるところでまた見慣れたデフォルメに変わる。
ここは本当に、どきりとする。
暴走族によって幼い子供が亡くなったというものだった。
ここでは、亡くなった子供に同情するまつ子に、ひしゃげたガードレールや添えられた花が枯れていることを指摘する、ひねたしげとの軽快なやりとりがいつもの山田家で、ホッとする。

 

そして、歩道橋を渡るシーンでまた少しリアル調の絵に変わり、そのまま場面転換、時は夜へと変わり、先程話題に上がった暴走族がリアル調のまま、改造マフラーの爆音を鳴らし街並みを走り抜けていく。

 

それを窓の外から覗く山田家のシーンでは、いつもの山田家だ。あたたかい色使いの画面で、いつもの絵柄なのに、そんな場面を見ている自分は心の隅にモヤを抱える。先程のガードレールのエピソードがしこりのように残っているのだ。

暴走族を止めようと勇む祖母のしげの代わりに、父たかしが向かう。ここで、山田家の門扉から外に出た瞬間にまたリアル調へと変わるのだ。


怖い。


漫画的、アニメ的なデフォルメの世界からリアルな世界へと移り変わることで、私たちはそれを現実的に捉えてしまう。

 

となりの山田くん」は一貫して山田家の日常を描いた作品である。題名のとおり、隣に住む山田家を観察してクスリと笑ってしまうような、楽しそうだなあと微笑むような、そんな気分になれる映画なのだ。

 

この暴走族は、私にとって山田家の日常を壊す、ひどく恐ろしい存在に思えた。

 

実際、暴走族に声をかけた父たかしに対して、暴走族は凄みを聞かせて、バイクの強烈なライトをたかしに浴びせたりと、恐怖を煽るシーンが流れる。

 

夜道を歩いていて、ふと、強盗に出会ったらどうしようか、だとか、凄惨なニュースを見て自分の身に起きたらどうしようか、だとか、そんなことを思うことはないだろうか。
自分の生活が、他者に侵害され、壊される恐怖。そして時にはその命すら奪われてしまうかもしれないという恐怖。

 

暴走族のシーンには、そんなものを感じてしまう。欠点のようなものがありながら、誰一人として悪役ではないこの作品に放り込まれた確実なヒールなのだ。

 

しかし、そんな恐怖も束の間、夜の暗がりから素っ頓狂な囃子言葉を奏でながら、しげとまつ子が踊ってやってくる。
ここではまだリアル調なのだが、私の恐怖はここでぐんと小さくなる。


ああ、いつもの山田くんだ。

 

踊り疲れて喘ぐ二人に、「なんやこのババア」とたじろぐ暴走族。祖母のしげがハァとひとつ息を吐くと、それが合図のようにいつもの絵柄に変わり、「ババアで悪かったな」と吐き捨て、そこから暴走族へ啖呵を切る。


そして、しげの「そんな怖いなら、正義の味方になって悪い奴らをこらしめたらどうだ」とまくしたてる弁舌に圧倒されたのか、それでもしげの彼らを否定せず、優しく肯定しているところに、少しだけ希望が見えたようにも感じさせる細やかな表情の機微を見せながら、暴走族は山田家から遠く離れて走り去ってゆく。

 

そして、山田家の日常を守ったしげとの対比に、一人ぽつりと佇み、不甲斐なさを感じる山田家の大黒柱、父たかし。そこから何もできなかったたかしが妄想の中で憧れていた正義の味方になって家族を守るというシーンが映り、しかしその後、家族として、男として、一人の人間として、正義の味方になれなかった無力感を噛み締めるシーンが挿入されてこの話は終わるのだ。
そこもすごく印象的だ。

 

正義の味方も、悪役も、本当にいるのだろうか。よく、誰かにとっての正義も誰かにとっての悪でしかなく、誰かにとっての悪もまた誰かによっては正義へと変わると言う。何者にもなれないと悲しむ私たちは、実際のところ何になりたいのだろうか。

 

祖母しげが話した正義の味方は、「あなたの怖さは武器になる。きっとその武器が有ればみんなあなたの言うことを聞くだろう。それで人を助けて感謝されるのも良いもんだ。そうして時々、チンピラをびびらせたり、悪どい奴らから金巻き上げたって良いんだ。どうだろうか」というものだった。ただ、暴走族の彼らを否定せず、短所にも見える部分を魅力として活かして、少しでも良い方へと導こうとする。素敵だと思った。

 

人には長所があって、もちろん短所もある。長所だけの人間はいないし、短所だけの人間もいない。そして、長所と短所は反対のものではなく、同じものだ。状況によってどちらにもなりうる。

 

何も起きない限り、私たちは私たちのまま生活を営み続けていく。それぞれの長所や短所、感情、歴史、境遇、悩み、他者との関係を抱え、育みながら。

 

私は優しい人間ではない。ムッとすることだってある。欠点だってたくさんある。人を困らせることだってある。それでも、優しくありたい。嘘でも偽でも良いから、人に優しさを持って接したい。そして、自分にも。

 

優しさってなんだろう、と常に考えているが、自分が優しさだと思っても相手には迷惑なことだってある。自分に優しくするときは自分の価値観で考えて、他人に優しくするときは、もっと、もっともっと他人に寄り添って、他人を考えて優しくするべきなのかなあ。


ただこうして、優しくありたいから自分や人に優しくあらねばならないと考える思考こそ、随分と身勝手で恩着せがましいのだという自戒だけはしっかり持っていきたい。

 

そして、ただ優しいばかりでなく、山田家のように欠点も愛らしく魅力的になるような、怒ったり、いじけたり、捻くれてたり、ぐうたらすることも否定しないような、そんな毎日を送りたいなあとこの映画を見るたび思うのです。