価値観の話

私は「あさりちゃん」という漫画が、自分の中で一番だと自信を持って言えるほど好きな作品だ。

この漫画は、タイトルの通り浜野あさりという小学4年生の女の子が主役の物語である。基本的にはギャグ調の漫画ではあるものの、その展開はシリアス、ホラー、SF、ファンタジーと多岐にわたるため、展開が飽きず、あさりちゃんを筆頭に個性豊かなキャラクターたちが読者を楽しませてくれる。そして、このあさりちゃんには小学6年生のタタミという姉がいる。あさりちゃんが感情的な面が大きいキャラクターであるならば、タタミはその逆で賢くて理性的な役割を果たすキャラクターとして物語に幅を与える重要なポジションだ。

単行本57巻に、そのタタミが不登校の中学生と出会う話が載っている。あさりちゃんという作品自体大好きなので色んなエピソードを記憶してはいるものの、この話は昔から特に印象に残っていて、さっき「価値観」について考えているときにふと頭をよぎったので、なんとなく、本当になんとはなしにこうして文章にまとめてみることにした。

 

この話のあらすじを説明すると、真面目で優等生であるタタミが、登校中に天気の良さに感化されて無意識に学校とは違う道に歩を進めてしまい、その道中の土手で不登校の中学生に出会う話である。

タタミは先ほどから評しているように真面目で理性的で、常識や正論を元に確固たる自分を持った女の子だ。感情的で野性的な妹、あさりの言動を冷静に諭したり、時には暴力を持って制することがありながら、クール一辺倒なわけではなく、喜怒哀楽の感情表現が豊かで自分の利益のために意地悪なこともしてしまう、人間らしく魅力的な女の子として描かれている。

この話の中でタタミは「学校に行かない子はいじめられっ子か あさりみたいなのだけだと思っていた」と話していて、現に土手の女の子が不登校であることを話した時の返しは「イジメ?」だった。
その後もタタミはその中学生にケジメや勉強、将来の心配を説き、集団生活における個の存在に対する正論(個はそれ自体では生きられず、集団に属する必要があるため、それを学ぶ機会として与えられた施設が学校である)をぶつける。
対する中学生は軽やかでフワフワとしていて、発言もジョーク混じりで、真面目に受け取るタタミを翻弄させていく。あまりにも価値観の違う言動を目の当たりにしたタタミはそのジョークに、自分が小馬鹿にされたと感じてムッとしたり、小学3年生から不登校だったのに卒業証書があることに笑う少女を理解できないと一蹴したりする。

そして、タタミに正論を言われた女の子は

 

あたしねえ、
ほんとは
宇宙人なんだ。
だからね
地球人の中に
うまくとけこめないの。
宇宙人だって
バレたらどうしよう…って、
いっつもビクビクしてるの。
だからこうやって
毎日
あたしを
おいてけぼりにした宇宙船を待ってるんだ。

 

と空を見ながら語る。


そしてそれをジョークだと宣言した後、中学生は自分も今日は学校をサボると言ったタタミに今からでも行ったほうがいい、サボりは似合わない、あなたと私は全然違くて、わたしはあなたのようになりたいと思っていたと話して別れてしまう。

 

その後、タタミはきちんと登校し、担任の先生に事情を話してサボったことを謝り、それを担任の先生が「サボりは良くないけど、いい勉強をしたね」と嬉しそうに微笑むシーンがある。
そこでタタミが不登校の中学生に会ったこと、自分が思っていた不登校とは違ったこと、どこか悲しくなったこと、それらを聡明なタタミが上手く言葉に表せなくて詰まるようにしながら話しているシーンがすごく好き。

 

タタミのように一貫とした、自分を持っている女の子に対して、恐らく中学生は自分と周囲が価値観を違えていることに不安や恐怖を覚えて学校に行くことをやめてしまったのかなあ、と思って読んでいて、だから中学生はタタミのように自分がブレない、そして価値観が大衆的(正論やマジョリティ的な意見で構築されたもの)な強い存在に憧れたのかなあ、なんて思う。
中学生の彼女が見せた軽やかで、真面目な人からして見れば軽薄そうな態度も、なんだか寂しさや諦めのようなものを感じさせて、タタミが悲しいと感じたことにすごく共感したというか。

タタミはずっと彼女を理解できないと言っていて、それでも悲しいと感じたと言っているんだが、違う価値観の人間との対話が私はすごく好きなので初めてこの話を読んだ時も強く印象に残ったんだよね。

価値観がぶつかり合うことで、双方に変わるものがあって、そしてぶつかり合ってもなお変わらないものもあって、でもそれが当たり前なんだなあ、みたいな。

 

ここでようやくfkmtの話になるんだけど、赤木しげると井川ひろゆきや原田克美であったり、天とひろゆき、そして沢田であったり、工藤涯と同級生であったり、伊藤開司と兵藤和也、森田鉄雄と川田三成であったり、とまあ沢山の価値観が似ていたり違っていたりする人物たちが出てきて勝負だったり会話したりするよね。

価値観の相似や反発って0か100かって話じゃなくて、この人とここは合わないけどここは共感できるな、とかこの人のこと嫌いだけど考え方は興味があるな、とかまるっきり外にある部分もあれば自分の中に在る部分もあって、関係性が生まれていく?的な。

理解、共感、憧れ、嫉妬、不満、恐怖、他人に抱く感情には色んな名前があるけれど、その言葉だけではもちろん的確に言い表せない部分もあって、恐怖と憧れは共存しうるし、理解と共感が反発することだってあるわけで、fkmt作品ではそういうのがさまざまな手法で現れていることや、読んだ側がまたさらにそれを思考することができるから楽しいんだなあと悶々と思考を巡らせてしまった。

価値観というのは日々変わっていく、なんというか脆いイメージが私の中にあって、今私が考えていることも、もしかしたら明日には全然違うものにすり替わってることだってありえるんだから、自分の価値観が変わることも受け止めながら、今ある自分の価値観やものの見方を大切にして、そして他人の価値観も大切にして、視野を広げて暮らしていきたいなあ、と思いながらも、私もタタミのように凛とした女の子に憧れを寄せてしまうのだった。

 

強い人間に憧れることは悪いことではないけれど、強い人はずっと強いわけではないし、それが強みかどうかはその人にとっても違ってくるし、強さという漠然としたものを見つめるより、なんでその人が強いのか、そもそも強いってなんだ?とか、やっぱ考えながら過ごしていきたいね。